【不登校の君の人生を切り開く方法1】学校に行かなくていいor行かなければいけない?その4
【不登校の君の人生を切り開く方法1】学校に行かなくていいor行かなければいけない?その3 の続き。
「学校に行くべきではない、学校はいつも間違っている」という大人に騙されるな
傷のなめ合いに慣れてしまうと牙を抜かれてしまう
不登校支援者や一定の政治的な息がかかった人たちの一部は、実に優しい声で君たちに語りかけてくる。「学校なんて行かなくていいんだよ」と。その言葉は一見優しいように感じるが、君はその人が自分が成長するのを見守ってくれる人なのか、はたまた自分にとって都合のいい弱者であってほしいと思っているのかを見破らなければならない。彼らは基本的に学校や教師を毛嫌いしている。あと民間企業もw
もしかしたら、そのような大人にとって自分の人生の不甲斐なさを慰めてくれる存在が必要なのかもしれない。支援者には「自分がつらい思いをしたから」支援の仕事を選んだという人が少なからず存在する。その全てとは言わないが、ごく一部、その理由だけでやっているから自分が癒やされるために困っている人の存在が必要になっているという人がいることが実に残念だ。そういう人は、当事者が成長意欲を見せたりするととたんに冷ややかな対応をする。昔勤めていた学校にもそういう教員がいた。それはそれは嫉妬深く、子どもたちの自立を妨げる存在だった。
君たちはそういうダサい大人の自己満足に付き合ってやる必要はない。
そもそも積極的に学校を否定してみたところで、過半数の生徒は今日も元気に学校に行き、机についている。そして彼らが将来の日本を支える。不登校で悩んでいる本人はそれを十分わかっているからこそ、悩むのだ。落伍したと。
たしかに学校教育には問題点は多々ある。時代遅れだと感じることも多々ある。メチャクチャな先生もいる。しかし、不登校になるからと言って学校そのものを否定するというのはいかがなものか。個々に応じた教育をするということにはどうしても限界があって、平均的な教育法で適応しきれない生徒に対するケアが不十分であることは私も認めるし、そういう子が別の環境で安心して学ぶ環境は必要だと思うが、だからといって学校そのものを否定するのは間違っていると思う。学校環境を改善しましょうという話と、学校の存在そのものの是非は全く違うテーマで、学校の存在を否定するということは自分が普段便利な生活や行政サービスを享受していることとの矛盾を引き起こすのだが、彼らにはそれがわからない。そんな大人の言うことを真に受けなくていい。
あくまでも学校から距離を置く生き方を否定しない、というスタンスで、その後の自分の生き方をどうするかを一緒に考えるのが良識ある大人の対応というものだ。
10代なら、挽回のチャンスはいくらでもある。自分にあった環境を作ることができれば、人間、驚くほど人生が楽しくなるものだ。諦めず、模索してほしい。
学校に行けるなら、行ってみよう。行けないのなら、行かずに生きていく方法を模索しよう
私のスタンスとしてはこれ。すでに不登校が社会問題になってから30年ほどが経過していて、生き方のロールモデルもネットで調べられるし、サポート校などのような不登校からのリスタートを支援してくれる仕組みも充実してきた。その反面不登校がカジュアル化しているという問題はあるが、依然として自殺とか自傷行為とかそういう深刻な状況に悩む不登校の子どもたちはいる。そういう状況からでも諦めなくて良い世の中になってきたということはとても歓迎すべきだし、数年ながら、そういう学校で働いて不登校経験のある生徒を世に送り出してきて少しはその流れに貢献できたと自負している。
大学だって中退する人は一定数昔から存在するし、ドロップアウトも選択肢の一つ。その後どう生きるかは柔軟に考えてほしい。学校辞めても、会社辞めても、いきなり社会的に死ぬ、というのは偏見だ。それは終身雇用制時代の幻想だ。そんなもんとっくに終わっている。自分らしく生きていければいいじゃない。
最後にもう一度書くが、不登校は不登校が問題なのではなく、それに至った経緯とか原因が問題なのだ。そこから避難する必要があれば、学校なんか行かなくたってどうにかできる。ただ、自分が生きる方法は、身につけておきたい。
【不登校の君の人生を切り開く方法1】学校に行かなくていいor行かなければいけない?その1
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